東京御廟 町屋光明寺

コラム

第5回 手を合わせる対象としての墓碑

「津波で流されてしまった家族のお墓が欲しい」
東日本大震災後、そんな相談を受けました。なかには、まだご遺体を探し続けるさなかの方もいらっしゃいました。

「家も流されているからお参りできるものが何もないんです。どうすれないいのでしょうか」
そう語るご遺族に、私はこうお話ししました。
「ご家族のふるさとを訪ねたときに土を持っていらしてください。土を骨壺に納めてご遺骨の代わりにご供養しましょう」

人はお参りする対象が、目に見えないと不安を感じます。
たとえば、仏さまは色も形もなくただ光だけで表現されるものなのですが、仏像や仏画は人の形をしています。それと同じでご遺骨、ご位牌を、亡き方だと思えるからこそ、安心して手を合わせることができるのです。

けれど、そもそもご遺骨は骨壺に入れてお墓に納めますが、100年も経てば壺が割れてご遺骨は土に還っていきます。つまり、亡くなったあと、自然に還っていくのが人間本来の姿だといえるのです。
ただ生きている我々がご供養するのは、自分とご縁があった人たち。さかのぼっても2代前、3代前のご先祖です。亡き人を偲ぶときには目に見える対象物、故人が生きた証が必要になります。それがご遺骨であり、ご位牌であり、お墓だといえます。

墓参には、亡き方を供養するほかにも、もうひとつ大きな意味があります。それは、自分自身のご縁を見つめ直すこと。
人は、ふとどこからか生まれてくるわけではありません。お墓のなかにいる方々が生きた結果として自分がいるわけです。
ご親族みんなが集まって執り行うお墓参りやご法要は、私たち浄土真宗では、亡き方をご供養するだけではなく、親戚同士で手と手を取って支え合いながら生きていくというご縁を再確認する場ととらえています。

私たちはそのような場を大切にして欲しいと考えております。自分が、いま、生きている意味を見詰め直す場でもあるのですから。

取材・構成/山川徹

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